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中国残留邦人の歩んできた人生 増井英雄さん「家族を想う・・・」

2025.06.10 掲載

 中国から日本に帰国した中国残留邦人は、第二次世界大戦後、長期にわたって中国に残留を余儀なくされたため、日本人としての教育を受ける機会がなく、中高年となって帰国したため、日本語の習得は大変困難な状況で、既に後期高齢期を迎えています。
 また、家族も日本語が不自由であり、就労も思うようにいかず、安定した職も得られなかったことから、老後の生活への不安など、その置かれている環境には厳しいものがあります。帰国した中国残留邦人やその家族を中国帰国者と呼び、中国帰国者支援・交流センターでは、日本での生活を支援しています。
 今回は、中国残留邦人<増井英雄(ますい ひでお)さん>の歩んできた人生「家族を想う…」をご紹介します。

満州で子どもだけになって

 私は昭和13年、佐伯郡大柿町で醤油屋を営んでいた両親の三男として生まれ、5歳の時に両親と兄姉の家族6人で、中国黒龍江省五常県に開拓団として入植しました。そこで両親は農業の傍ら醤油や日本酒を作り、私たちは小学校に通い、家に帰ると手伝いをして暮らしていました。しかし、満州へ行って1年ほどで母が病死し、終戦前には父が徴兵されてしまい、私たち兄弟は子どもだけになってしまいました。

母と兄と一緒に(中央が英雄さん)

 昭和20年の終戦時にはソ連が攻めてくると聞き、開拓団全員で小屋のような所に避難しました。食べ物がなく、夜中に山へ行って、生のとうもろこしをかじりました。布団も着替えもなく、冬でも夏服のままでした。そんな劣悪な環境のもと、子どもたちは半分以上が亡くなり、長兄も伝染病にかかり、別の建物に移されました。亡くなる少し前に兄は知り合いからカステラをもらいましたが、自分は食べずに私と次兄にくれました。そのことを思い出すと今でも涙が出ます。弟たちを残して、どんなに心配で無念だったでしょう。
 私が8歳の時、私たち兄弟3人は中国の養父母に引き取られました。数か月後、家に日本人が何回か訪ねて来て「一緒に日本へ帰ろう」と言いましたが、養父母が帰国に反対し「子どもは船から海に捨てられる」と言われ、怖くて中国に残ることにしました。養父母は農業をしていましたが、貧しかったので、学校へは行かせてもらえず、兄弟間で日本語を話すのを止められ、日本語も忘れてしまいました。近所の子どもからは「日本の鬼子、日本の犬」といじめられ、そんな時は「中国にいたくない、日本に帰りたい」と泣きました。

日本に帰りたい

 私が15歳の時、中国公安局の人が日本人を20人ほど集め、「日本の赤十字から日本に帰りたい人は帰国させるよう要求があった」と説明されました。帰国希望者は名前を書くように言われましたが、日本の親族のことは何もわからず、広島には原爆が落とされて草木も人も何も無くなったと聞いていたので、その時は帰ることを諦めました。他の孤児たちも諦めた人がほとんどでしたが、岡山県出身の友人が帰国することになったので、姉が広島の伯父の住所と名前を伝え、自分たち3人のことを伝えてほしいと託しました。友人は帰国後、私の父や伯父のことを探し出してくれ、半年も経たないうちに広島に住む伯父から手紙が来て、父が戦後、シベリアに抑留された後、日本に帰国したものの、北海道の炭鉱事故で亡くなったことがわかりました。もう会えないと思うととても悲しかったです。苦労しながら手紙のやり取りを続け、数年後、伯父から「自分が日本側で帰国手続きをした後、英雄が中国で帰国申請をすれば日本に帰ることができるのでは」と言われ、私はすぐに手続きをしました。
 しかし、何年経っても帰国許可は下りず、私は25歳で同じ村の中国人女性と結婚しました。子どもも生まれ、ささやかな幸せを感じていましたが、後の文化大革命の時には、日本人ということでスパイ容疑をかけられました。それでも日本への帰国を願い続け、毎年のように中国の公安局に帰国申請をし続けました。
 初めての申請から10年がたった昭和45年、私が32歳の時に突然、帰国の許可が下りました。しかし、喜んだのも束の間、出国までの期限はたった2週間しかなく、しかも中国籍の妻を同伴しての帰国は許されなかったため、悩みましたが、この機会を逃したら、もう帰国できないかもと思い、仕方なく形式的に離婚することにしました。その時、妻のお腹には二人目の子どもがいました。
 後ろ髪を引かれる思いで、五常県を出発し、香港経由で日本へ帰国することになりました。中国国境までは公安局の人が同行し、厳しい出国審査を受け、香港からは貨物船に乗って名古屋港までの長い船旅でした。名古屋に着くと伯父と広島県の職員が迎えに来てくれていました。永年、夢に見た日本の風景は山がきれいで、車や生活に便利な物にあふれていて、本当に驚きました。やっと自分の祖国に帰れた、これで安心して暮らすことができると嬉しく思いました。

家族を想う…

 帰国直後は広島の伯父宅に身を寄せていましたが、1週間ほどで家を出て、中華料理店に住み込みで働くことにしました。それからは朝から晩まで一生懸命働きました。そして、給料の半分以上を中国にいる妻子に仕送りしました。離れて暮らす私には、他にしてあげられることはありませんでした。
 そんな離れ離れの生活は約20年続きましたが、やっと私たちは再婚手続きをし、家族一緒に日本で暮らせるようになりました。妻は日本語がわからず苦労していました。家族が日本に来て8年ほど経った頃、妻が中国に一時帰国中に体調が悪くなったと連絡がありました。子どもたちはすぐに駆け付けましたが、私は仕事を休めず行けませんでした。残念なことに妻はそのまま中国で亡くなり、子どもたちが遺骨を抱いて広島に帰ってきました。苦労をかけた妻と最後のお別れもできずに、とてもつらく無念でした。
 私の人生は本当にいろんなことがありました。中国では、言うに言えない苦労もたくさんありましたが、感謝の気持ちもあります。ただ、自分は学校に行くことができなかったので、子どもたちの教育のため、そして家族の暮らしのために、一生懸命に働いて生きてきました。今の暮らしは昔に比べるとずいぶん楽になり、公民館やセンターで楽しく過ごしています。これからは元気で穏やかに過ごしたい…ただそれだけが願いです。

お問合せ先

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